東京スカイツリーでの能✖️VJステージ

先週末、東京スカイツリーでやっていた

能✖️VJステージを食い入るように観賞してきた。

何というか、やっぱり少し軽さが入るだけで

日本の伝統芸能が極めてかっこいい。

 

ステージは1日に3回上映で

現場は満席で立ち見オーバーだった。

初回を見ようと意気込んでいたのに

身体の気だるさがたたって見逃し、

そのあと日本橋小伝馬町でのイベント

「本のインド、インドの本」に立ち寄ろうと思っていたのと、

東京ステーションギャラリーのアドルフ・ヴェルフリの展覧会を、

上智大学西洋美術史に詳しい大学教授と見にいく約束があったので、

夜の回にまた舞い戻ってくる形でようやく念願かなった。

 

去年、明治座「SAKURA」のチケットをいただき、

歌舞伎とアニメオタクが融合した衝撃的な舞台を見てからというもの、

日本の伝統芸能とデジタルの相乗効果におののいていて、

 

今年の目標が舞台、でもある私にとってはずっと課題となっている領域。

 

そして少しずつだけれど、

そのコンセプトを形に落としつつある今。

 

去年、鹿児島の知覧特攻平和会館を訪れてから、

4人の天女が特攻部隊として燃え尽きた一人の魂を救い上げる、という、

痛みへの痛みが胸を貫く絵画が私の心を捉えて離さなかった。

その強いインスピレーションが、次なる衝動を揺さぶった。

 

絵画ではなく、舞で伝えたい、と。

 

特に踊れるわけでもない私は、和歌山県龍神村にいた

片割れの友、巫女でもあり草木染め作家でもある友人にオファーをかけた。

琵琶の音色とともに、その悲しみ、魂の美しさ、

懸命に生ききるということが一体どういうことなのかを

自身とこの世界に問いかけたい、とそう思った。

 

私の直感で、必要な人に声をかけて話をしたところ、

幸いにもみんな面白そう、とすごく興味を持ってくれた。

 

私が話す大概の企画はおおよそみんなありがたいことに

面白そう、と言ってくれる。

そう、企画はできるけど、

その先が修羅場のようにいつも難関。

 

オリジナル、をやることに意味を見出す私にとって、

オリジナル、を実現することは途方もないことであることを

芸術界の人間であれば誰でも知っている。

 

走り出したらどこも削れない、効率化も省略も出来ない。

イメージが完璧に体現されなければ意味がないことを本能的に知っている。

 

だから思考回路が究極にシンプルになるまでずーっとずーっと待ち続ける。

そのあとが大変なのを身を持って知っているから、

動かざる追えなくなるまで、搾り取れるものは全て搾り取り

削ぎ落とせるものは全て削ぎ落とす。

それはストイック、というよりも、ここでしか対策が打てないことを

過去の経験からわかっているからだと。

 

一本の研ぎ澄まされた無駄のない光の道に、

どれだけの想いを救い、どれだけの価値を見いだせるかということに

全身全霊をかけて、あらゆるケーススタディを想定する。

 

そうやって、前に進んだプロジェクトは迷いなく強い。

そうやって、研ぎ澄まされた私の感覚も実は、

計測できないほど尋常ではない域に達している。